トランプのTPP論


2016.5.10

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大統領選後のアメリカ通商政策を読み解く

【なぜ貿易政策が政治の論点となるのか】

米国大統領予備選において、重要な論戦テーマの一つに通商政策(trade policy)がある。具体的には、米国史上最大の自由貿易協定TPP(環太平洋パートナーシップ)に対する候補者のスタンスがその焦点となっている。民主党・共和党両党の主要候補者がすべて「反対を表明」していると日本では報じられている。「米大統領選、TPP反対一色」(『日本経済新聞』2016年2月27日付)、「両党とも候補者がTPP反対を競い合う展開」(『毎日新聞』同日付)といった具合だ。

実際のところどうなのか。両党の主力候補4人(民主党のヒラリー・クリントン上院議員、バー二ー・サンダーズ上院議員、共和党からは実業家のドナルド・トランプ氏、テッド・クルーズ上院議員)の発言とその背景を分析し、事の真相を探っていく。

日本では、執筆現在(4月上旬)会期中の国会においてTPP関連法案が最重要テーマだ。しかし野党は、公開された交渉過程文書が黒塗りにされたことなどを追及するばかりで、混乱が続いている。実質の審議にさえ入っていない有様だ。

交渉妥結までリードしてきた日米の両経済大国が、TPP問題で空転しているのだ。日本では、今回に限らず、交渉参加前からこれまで毎年のように国会で繰り返されてきた光景だ。アメリカでもTPPに関わるTPA(貿易促進権限)問題で、議会が何度も紛糾した経緯がある。では、なぜ貿易政策が政治の論点となるのか。大統領候補の発言を軸に、その本質にも迫りたい。

その前に、4者の主張を要約しよう。立場は大きく3つに分かれる。一つ目はTPPの協定文書の「完成度」や協定締結への「手続き」といった、形式面に対する不支持の立場である。前者がクリントン氏、後者がクルーズ氏で、両者ともアジア太平洋における自由貿易や投資、制度の枠組みづくりに反対しているわけではない。もう一つの立場はTPP以前に自由貿易自体に反対し、保護主義を全面に主張する立場で、サンダース氏がそれだ。そして、最後がトランプ氏で、3人の主張をうまく取り入れた玉虫色のスタンスをとっている。結論からいえば、反対しているのはサンダース氏しかいない。

では、各候補者の発言を紹介しながら、真意を読み解いていく。

【ヒラリー・クリントン――突如“心変わり”】

まずは、民主党の有力候補ヒラリー・クリントン氏からだ。

「TPPは私の設定する高いハードルを満たしていない。その判断基準とは、アメリカ人の仕事を増やし、所得を向上させ、国家安全保障を促進するものでなければならない。私はいまも、強力でフェアな通商協定がアジア太平洋地域で実現できるという目標を信じている。これまでのオバマ大統領や彼のチームの尽力は評価している。しかし、先週交渉が終わり、その協定の中身を見ると私の基準を満たしていない。とくに中間層のアメリカ人の目線から見て、所得が上がると確信したかったけれども、私の結論はそうはならなかった」

これは現行TPPの協定内容について、不支持の立場を初めて表明した際のコメントである。TPPが妥結した数日後のことだ。クリントン氏はオバマ政権の国務長官時代、TPPの推進者であるとたびたび明確に発言していた。支持表明を行った回数は、公式の場だけで45回に及ぶ(CNN調べ)。たとえば、2012年のスピーチではこう述べている。

「TPPは(通商協定における)最も高い基準を設定し、自由で透明性がある公平な貿易ならびに法の支配や公平な制度条件、環境づくりのための協定である。締結されれば、本協定は世界経済の40パーセントをカバーし、労働者や環境にとって強い防御策を築くものだ」

大統領選出馬を見据え出版した自著『困難な選択』においても、TPPについてこう言及している。

「TPPは我が国のアジアにおける経済戦略の柱である」

クリントン氏は日本に対しても、TPP参加を促した張本人の一人である。

「米国は日本のTPP参加への関心を歓迎する。TPPによって、アジア太平洋の地域経済が結びつきを強め、貿易と投資が容易になり、輸出や雇用を刺激するものだ」(2012年7月8日、日本政府との会合)

しかしながら、彼女は大統領選に突入すると突如、“心変わり”をした。この時期は、一部世論調査で民主党の大統領候補として、最も左派的な候補サンダース氏の支持率がクリントン氏を上回りはじめたころと軌を一にする。そこで選挙対策として、通商政策のスタンスを民主党左派寄りに移行する必要があったのだ。保護主義を求める労働者層に訴求するためである。実際、民主党支持の製造業系労働組合はTPPに反対しており、自身のポジション変更によって組合からの支持が得られることを期待してのことだ。

事実、急ごしらえの転向表明のため、主張内容に具体性が見られない。たとえば、こんな発言だ。

「アメリカで雇用が失われたのは、アジアの一部の国が行なった通貨操作によるものだ。そのほか、まだ答えられていない問題がたくさんある」「協定の文面上ではよく見えるが実際そうでもない。2012年発行の米韓自由貿易協定(KORUS FTA)についてもそうだったが、期待したほどの恩恵を受けていない」

そもそも通貨操作とTPPとは関係がない。通関発行権は各参加国政府の専管事項である。TPPの原則はGATS(サービスの貿易に関する一般協定)第1条に定めてあるとおり、政府の権限として提供されるサービスは対象外となっている(国民皆保険も同様)。韓国とのFTAへの言及については、まだ発効していないTPPを同列に論じる意味はない。それ以上に、KORUSは無数の事業者の取引に活用されており、その成果を一般論で政治家が判断できる性質のものではない。

いずれにせよ、ポジショントークの域を出ておらず、労働組合票が欲しい政治的打算以外の何物でもない。

不支持発言の直前、オバマ大統領にその旨、通知したとの報道もある。「私の本意ではないが、当選するためにあらかじめ了承してくれ」といった意図を伝えたのだろう。

仮にクリントン氏の発言に真意があるとしても、TPPそのものに反対しているわけではない。その協定内容の一部が彼女の基準を満たしていないと主張しているだけだ。であれば、その論点を明確にしなければならない。もし彼女が当選したとすれば、それらを他の参加国に提示し、相手が受け入れれば再交渉を開始すればいいだけだ。既存のTPP協定に再交渉に向けた条項やスケジュールが示してある。

【バーニー・サンダース――鎖国的な保護主義者】

同じ民主党の候補者でも、サンダース氏の立場は一貫している。合衆国上院議員初の社会主義者で、筋金入りの反自由貿易主義者でもある。「私は公平な貿易は支持するが、自由貿易は支持しない」と公言するほどだ。

サンダース氏はTPPについて、ツイッターで多くの投稿をしている。次はTPP妥結直後に発した連続コメントだ。

「TPPに対して失望こそすれ、驚きはしなかった。TPP協定を前進させる政府は災難をもたらす。TPPは消費者に損害を与え、アメリカ人から仕事を奪う。TPPを通じて、ウォールストリートやその他の大企業は再び勝利してしまった。われわれは今こそ、多国籍企業が利益を吊り上げるために操作している詐欺的なシステムをやめさせるときだ。その犠牲になっているのがわれわれなのだ」

大げさな反大企業論で失業者、労働者の感情に訴えかけ、こう続ける。

「われわれに必要なのは企業のCEOのための通商政策ではない。アメリカの労働者の利益を促進する政策だ。TPPは、失敗した過去のメキシコとのNAFTA(北米自由貿易協定)や中国との通商と同様、何百万もの雇用、何万もの工場閉鎖を全米にもたらす。TPPは雇用だけでなく、労働者の権利、環境保全、食品安全、金融法まで破壊してしまう」と“TPP亡国論”を全面展開する。

根拠はあるのか。雇用減については、「NAFTAによってメキシコとの貿易で輸入超過に陥ったため」(サンダース氏の英『ガーディアン』紙への寄稿記事)とする。締結前は輸出入が均衡していたのは事実だが、発効した1994年以降、輸入が6倍になっただけでなく輸出も5倍になっている(2015年比)。額にして約20兆円の伸びだ。同記事には「68万人の雇用が失われた」(経済政策シンクタンクEPI)とあるが、その出典レポートを読んでみたところ、輸入増加の影響からしか推定されていない。輸出増加の寄与が含まれていない不完全な内容だった。

サンダース氏はTPP協定の形成過程にも疑問を呈する。

「アメリカの雇用を台無しにする貿易協定は秘密裏に交渉されている。その原案は、既得権益や企業のロビイストによって作成され、アメリカ人から選挙で選ばれた代表は関与していない。ただ協定書に形式的に承認するだけでなく、議会や一般労働者が原案のなかに何が書いてあるのかを知る十分な機会をもつべきである」

徹底して反企業・親労働者的なスタンスを貫く。クリントン氏がTPP不支持を表明した後の発言はこうだ。

「彼女が同じ舟に乗ったことを嬉しく思っている。彼女のサポートで、全米の労働組合および環境団体が結集し、ウォールストリートや大企業によって書かれた協定を打ちのめすことができる」

どうやって打ちのめすのか。たしかにサンダース氏はTPP参加後から一貫して、議会が大統領・政府に交渉を委任するTPA(貿易促進権限)法案に反対票を投じてきた。そして、こう論じる。

「議会が目指すべきことは、アメリカ製品を一番の輸出品にすることで、アメリカの雇用を海外に売り飛ばすことではない」

具体案はあるのか。

「通商政策は根本的に変更しなければならない。アメリカ企業が外国ではなく、アメリカに投資するようになる方向性である」と曖昧に語るのみだ。

要するに、サンダース氏は鎖国的な保護主義者である。参加国間で相互の貿易や投資が増えることを是としない。その強化を促すのがTPPだから、当然、彼はTPP反対、そして廃止論者となる。

もしサンダース氏が当選すれば、大統領・政府として議会に対してTPP批准のための法案を送らないという政治的手段が手に入ることになる。その結果、TPP脱退という道筋もありえないわけではない。その場合のアメリカの未来はどうなるのか。

彼が主張するとおり、貿易を減らせば、TPPで失われるはずの仕事は短期的にはアメリカに残るかもしれない。失業せずとも、労働者は低賃金の仕事にありつくことができたかもしれない。だからといってアメリカの外の世界が進歩を止めるわけではない。サンダース氏の鎖国政策とは、アメリカの労働者を外の経済から隔離することだ。そうなれば、アメリカ人にとって国外の新たな技能やスキルを身に付けるインセンティブが下がる。その結果、アメリカ人のグローバル経済における競争力低下に直結する。

そうはいっても、サンダース氏が貿易に対して懐疑的になる理由はわかる。貿易によって勝ち組と負け組ができるというゼロサムの直観的理解は、自由貿易はおしなべていえば皆が利益を得るという経済学の教科書的な説明より理解しやすいからだ。現に失業して困っている人に対して、「人々は自由貿易を通じて新しい仕事を別の産業で見つけ、収入は上がり、輸入価格は安くなるから生活は豊かになる」といったところで説得力はなく、気休めにもならない。また、新しい能力を身に付け、順応するにはたしかに時間がかかる。しかし、保護貿易や鎖国はその順応プロセスを遅くするだけだ。その意味するところは、現在の一部労働者を助けることで将来世代の労働者が知らないあいだに大きな打撃を受けることになる。

サンダース氏のTPP論はいうなれば、年金の世代間格差問題に似ている。多数派である年金世代の有権者向けの政策を選挙で訴え続けていれば、将来世代の負担は大きくなるばかりだ。現在の有権者=雇用者だけに焦点をあてるサンダース氏の主張は人気を博しているが、じつは将来の雇用者のことは何も考慮に入れられていないのだ。

変化対応には産業によって一世代二世代かかることもあるが、自由貿易によって労働者も消費者も結果として豊かになる道である――この自由貿易の命題を有権者に対して、完全に説明する術を民主主義というシステムは持ち合わせていない。裏返せば、これが米国におけるサンダース人気の要因であり、日本でもTPP反対論への支持が根強い原因でもある。

【ドナルド・トランプ――絶対反対ではなく再交渉論】

そのサンダース氏について、「私が唯一、彼と意見が合うのはTPP」と語るのが共和党大統領候予備選でトップを走るドナルド・トランプ氏だ。

「彼と私は通商において、中国や日本、メキシコなどアメリカがビジネスをするすべての国から搾取されていると認識している」

続けて、サンダース氏との違いを強調する。

「私はその問題に対処できる。私はTPPの再交渉できる。そして私はその協定を改善できる。しかし、サンダース氏はそれについて何もできない。なぜなら、彼の得意分野ではないからだ。私こそがTPPを“ドル箱”に変えることができる」

日本の報道だけを読めば、自由貿易やTPPについてトランプ氏は絶対反対の立場を表明しているように捉えられているが、そうではない。TPPについて彼は、“再交渉する(renegotiate)”といっているのだ。

通商問題について語るとき、トランプ氏が頻繁に口にするフレーズがある。

「私は自由貿易が好きだ」「私は100パーセント自由貿易論者だ(I’m a free trader, 100 percent!)」

そしてトランプ氏が問題にするのは、「自由貿易交渉に必要なのは、交渉に長けたスマートな人だ。いま国際交渉している人にスマートな人がいない」という点だ。

トランプ氏の人気が高い理由の一因は、成功したビジネスマンであると同時に、高視聴率を獲得したテレビ番組『アプレンティス』で示したタフ・ネゴシエーターぶりが一般大衆に根強く残っていることがある。そうした彼が大統領になれば、ビジネス経験を生かし外交でも諸外国に対してタフな交渉をしてくれるのでは、との素朴な期待がある。

実際、共和党候補者のテレビ討論会でも、通商や外交問題になれば、不動産で成功した自らのビジネスセンスを絶えず強調する。ライバルに対しても、我こそがアメリカの職を奪われないようにする唯一の資格者である、と印象付ける効果がある。

そして、ビジネスマンらしく「TPPはひどい取引(deal)だ」と表現したうえで、「TPPは最悪だ(so bad)」「TPPは狂気の沙汰だ」といったシンプルで強い言葉を使って印象を残し、主観的な結論を一気に下す。

「いまのままTPPが承認されれば、アメリカの職が失われる。今回についてはこれまで見たこともないほどの職が失われるだろう。私がしたいのは、この国に職を取り戻すことだ」

さらには、アメリカから職が失われていくのは、TPPをリードしたオバマ大統領や外交交渉のトップであるヒラリー・クリントン前国務長官の交渉力のなさのせいだ、と畳み掛ける。

「TPPでアメリカは他の参加国のカモになる。TPPを結んだわれわれの指導者はベイビー(赤ん坊みたいな人)だ。だから、世界はアメリカ人を尊敬しなくなったのだ」「我々の指導者はひどい交渉をしてわが国を冷え上がらせようとしている」といった具合だ。

従来、共和党は自由貿易支持のビジネス層、民主党は不支持の労働者層が有権者とされてきた。そこでトランプ氏は通商政策のスタンスをどちらの党の支持者にも訴えられるよう巧みな表現で、TPPを位置付けすることに成功している。民主党員から新たな支持を得ると同時に、ここでも他の共和党候補者と差別化ができているのだ。加えて、民主党、共和党を問わず、既存の政治家に交渉を任せてはならない理由を述べる。

「TPPを支持している唯一の人びとは企業のロビイストだ。この協定によって儲かる特定の会社のロビイストだ。問題は政治家がロビイストに支配されていることであり、ワシントンの官僚も同様だ。私はビジネスマンとして、クリントン氏をはじめ民主・共和両党の政治家に献金し、ロビイストを雇ってきたからよくわかる」

彼の通商政策について持論を述べる際、貿易協定は2カ国交渉で進めるべきだと言及する。「個別の国と1対1で交渉したほうがアメリカの強みが発揮でき、より有利な交渉ができる」という考えからだ。同じ自由貿易論者のなかでも、トランプ氏と同じ「バイ(二カ国間)」支持者もいれば、「マルチ(多国間)」支持者、WTO(世界貿易機関)による「多角的自由貿易体制」支持者もいる。したがって、トランプ氏の考えは必ずしも極端なわけではない。ただそんな厳密な主義主張の話というより、ビジネス交渉術の観点から単純に論じているだけだ。有権者にもわかりやすい。

また多国間交渉の「TPPの場合、協定文書は6000ページと長すぎて誰も理解できない」との反対理由を述べる。実際のビジネス運用上は、トランプ氏は間違っている。彼が支持する2カ国の協定文書が無数につくられていくと、複数のルールが国を超えて複雑に絡み合って理解が難しくなる。その結果、企業がTPPを使いこなすコストが高くなる。この問題を指す際に、絡み合ってほどけない意味で「スパゲティボール現象」というFTA専門用語もあるぐらいだ。しかし、そんな小難しい説明は有権者向けの短いスピーチには適さない。

TPPについて語る際、必ず名指しする国がある。中国だ。

「中国はアメリカの上手をいっている。なぜなら彼らはすごいからだ。そして中国が通商協定の最大の乱用者だからだ。TPPは中国のために設計されている。われわれは結局のところ、(今後)裏口から入ってくる中国にTPPを貢くことになるだけだ。中国はTPPの弱点を突き、どの国よりも悪用してくるはずだ」

とても漠然とした指摘だが、中国を脅威に感じている聴衆には真実を語っているように響くことだろう。

そこで、私が大統領になれば、と前置きし「中国から輸入される全品目に対して関税45%を課す」と選挙公約を示し、「その結果、われわれは工場労働者の仕事をアメリカに取り戻し、アメリカをあらめて偉大な国にするのだ」と締め括る。かつては『もし私が大統領なら中国産品への関税は25%にする」(『ウォールストリート・ジャーナル』紙2011年4月9日付)と語っていたが、最近のスピーチでは45%に引き上げた。25%だと素人にはまだ少ない印象を与えるからだろうか。メキシコからの主要製品に対しては関税35%にする、と公約する。

この関税引き上げ政策は、「自由貿易主義者」だとする自称と完全に矛盾するが、意に介さない。有権者に「関税を上げる→輸入品が減る→国内に工場が戻ってくる→雇用が増える」とシンプルに理解されればいいのだ。

しかし、そんな政策は現実的には不可能だ。WTO加盟国間の基本原則―自由(関税引き上げ・数量制限の禁止)と無差別(最恵国待遇、内国民待遇)に反する。アメリカは2カ国でも、中国に対しては恒久通常貿易関係(PNTR)を結んでいる。

メキシコが加盟するTPPやNAFTAに関連づけてにいえば、このような自由貿易地域をつくるための条件として、GATTには「関税その他の制限的な規則を実質上すべて廃止」(24条8項)、「地域統合の完成までの妥当な期間は原則10年以内とする」(同5項)と1994年から明示してある。なぜそんな規則があるのかは簡単だ。地域で談合して、域外に対して高度な関税や制限を設けることを許せば、世界経済のブロック化を招くからだ。その反省をもとに、第二次大戦後GATTがつくられ、WTO体制へ向かった。あくまで全世界で同時に自由化するのが理想であり、地域統合はその先行事例であるかぎり認められるという優先順位である。

仮に彼が大統領になったとしても、戦後、米国が主導して築いてきたWTOから脱退してまで、関税引き上げ政策を実現するとは思えない。その証拠にトランプ氏は「WTOの場で、中国政府の輸出補助金政策を訴える」と言及している。現在、WTOに入っていない代表的な国といえば、北朝鮮、ソマリア、南スーダンぐらいだ。

実現されないにせよ、彼の関税引き上げ提案の意味することは貧しい人に課税することに等しい。中国から安い商品を買って生活できている貧困層に45%課税することと同じことだからだ。

以上、総括すればトランプ氏のTPP談義は選挙上の緻密なマーケティング戦略に基づいている。両党の支持者および浮動票を取り込むためのさまざまなキーワードをちりばめていることからもわかる。中国やメキシコ、時に日本悪玉論を展開し、いくら反発を受けたとしても関係ない。米国人以外は投票権がないから、マーケティング上、彼の顧客セグメント外の国民、人種に対しては言いたい放題で構わないのだ。通商政策においては、国内の既得権益にも貿易相手国にも左右されない、自分のようなタフで、金持ちで、スマートな交渉人が必要だとの認識を有権者に促せばいいだけだ。そのためのネタとして、TPPという時事単語を極めて有効に使っているにすぎない。

【テッド・クルーズ――苦し紛れの発言】

そんな老獪なトランプ氏の戦略に翻弄されてきたのが、TPP推進論者であった共和党候補者たちだ。有力候補だったマルコ・ルビオ氏はTPPについて当初、大統領になった暁の外交政策の3つの柱の1つとまで明言していた。実際、早期妥結を求めるために議会工作をしていたが、トランプ旋風を受けて選挙途中に「TPPについて判断保留」を宣言。一時は支持率がトランプ氏に肉薄していたが、それでもトランプ氏から引き離されてしまった。しまいには「オバマ大統領が進めたTPPは中国への贈り物だ」とのトランプ氏“丸パクリ”の反TPP論に転じる醜態まで見せて、選挙選から撤退した。

現時点でトランプ氏に対抗できる唯一の共和党候補者テッド・クルーズ氏も、転向した一人だ。立候補した段階では、「私は明々たる自由貿易の擁護者である。TPPはアメリカに利益を与え、雇用を作り出し、経済成長を促すものだ」と述べていた。それが昨年半ばには、「私はいまだ自由貿易を信じているが、政府から議会に提示されているTPA(貿易促進権限)の内容に懸念がある」と言及しはじめた。その理由として、「わが国の法律に大きな変化をもたらす潜在的な脅威がある。とくに移民問題や輸出入銀行についてである」とTPPに関係のない事柄を挙げた。ここ数カ月は、新たな理由を加えた。

「TPPはレイムダック時期(大統領の任期切れ前の期間)に議決すべきではない。われわれ保守派にとって、リベラルなオバマ政権の座に就いている時に決めるべき問題ではない。議会が説明責任を果たせるときに投票すべきである」

わかるようでわからない。トランプ氏に対抗し、ポーズとしてTPP不支持に見せるための苦し紛れの発言だからである。これでは、歯切れはよいトランプ氏のTPP論には勝てない。転向しなかった候補者に、ランド・ポール上院議員とジェブ・ブッシュ元知事がいたが、2人とも低支持率にあえぎ、早々に撤退してしまった。

本心から政策を訴えれば勝てるほど、大統領選は甘くない。選挙とは有権者のどの層からどれだけの支持を得るかの最大公約数を見つけ出す確率のゲームだからだ。このゲームに勝つために、紹介した4人の候補が「サル芝居」を打っている様子を理解いただけただろう。

日本での事情も大して変わらない。2012年の総選挙においても同じだった。自民党の選挙ポスターの一部にはこう明記されていた。「TPPへの交渉参加に反対!」「ウソつかない。TPP断固反対。ブレない。」などだ。しかし、選挙に勝利し、政権奪還後、早々に参加を表明。今年のTPP協定署名式に和服でにこやかに登場したのはTPP反対論者の高鳥修一副大臣であった。反対だからといってそれが本心とは限らないのが政治だ。日本の場合、地方における盤石な票田である農業界を抑え込むためであり、米国では多数派の労働者層の囲い込みを図るのが狙いである。

【TPPは「ビジネス・ツール」である】

選挙戦略は以上として、大統領選後、アメリカの通商政策に変更はありえるのか。

現在のTPPはそもそも、2006年、米国がFTAAP(アジア太平洋自由貿易圏)構想をAPEC(アジア太平洋経済協力)首脳会合で提案し、全会一致で賛同が得られたことに端を発する。共和党のブッシュ前政権から現民主党のオバマ政権に引き継がれ、2008年、米国はAPECペルー会合で、オーストラリア、ペルー、ベトナムと共に参加表明した。

共和党と民主党両党の政権にまたがり、2016年、構想から10年のときを経て、署名まで漕ぎ着けたものだ。あとは議会での批准法案の通過を待つだけだけだが、次期大統領候補者の言動により、先行きが見えない状況になっている。

とはいえ、この状況をもってTPPが頓挫するといった判断するのは早計である。現在の米国のTPPをはじめとする通商政策は大きな転換を遂げていまに至った経緯があり、それに比べれば、今回の候補者の言動にそれを上回るポリシーや哲学があるとはとても思えない。

米国はそれまでWTOによる「多角的自由貿易体制」を支持し、TPPのような「地域経済統合」には反対の立場であった。TPPは米国主導と言われてきたが、2006年になって大きな方針転換を下していたのだ。転換の背景にはWTO交渉ドーハラウンドの頓挫があった。戦後、主導してきた「全会一致の多角的通商体制」が機能しなくなってきたのだ。並行して、米国抜きで進展するアジア地域での広域自由貿易圏構想に対する焦りもあった。

こうした歴史的な経緯を経て、アジア太平洋地域において地域経済統合への道に舵を切ったのである。日本で参加表明まで時間がかかった以上に、米国ではTPP構想に着手し、参加を呼び掛け、署名に漕ぎ着けるまで膨大な合意形成を経てきているのだ。

現実問題として、現状12カ国の参加国に加え、「本協定は、APEC(アジア太平洋経済協力)加盟の国・関税地域に対して、門戸が開かれている」(TPP協定 第30章第30.4条)。残す非加盟国・地域は、中国、ロシア、韓国、台湾、香港、インドネシア、フィリピン、タイ、パプアニューギニアである。とくに大国である中露もTPP参加に向けた動きが見られる。「中国共産党機関紙、中国もTPPに参加せよと主張」(ロイター)、「ロシア、TPPは同国にとって深刻な課題との見解」(同)と報じられているとおりだ。韓国、台湾、タイ、インドネシア、フィリピンも濃淡の違いはあれ、参加希望を表明済みである。APEC諸国の加盟が網羅されていけば、経済連携の枠組みであると同時に、アジア太平洋の通商・投資・制度を軸にした相互依存的な安全保障網の意味合いも高まっていく。

そんな道筋が近い将来、見通せるなか、米国がこの枠組みからわざわざ抜け出す選択をする合理的な理由は見出せない。サンダース氏のいうような鎖国政策への意向やトランプ氏の“得意”な2カ国交渉に地域経済を分割していく方向性に光明は一筋もない。

もし仮にアメリカがこの協定から脱退すれば、アメリカは産業界と労働組合の対立が深まり、ポピュリスト政治家が支配する世界に陥ってしまうだろう。アジア太平洋地域において、アメリカの政治経済のプレゼンスは確実に失墜する。そして、相対的に中国の覇権が高まる。

なぇなら、その隙にアメリカ抜きの地域パートナーシップRCEP(東アジア地域包括的経済連携)が中国主導で進展するからだ。当然、アメリカの通商条件を悪化させ、中国を利するものに帰結する、中国を懲らしめるためのTPP脱退が、中国を勢いづける契機になる皮肉な終末を迎えることになるのだ。

政治的な問題を抜きにすれば、TPPは「ビジネス・ツール」である。各事業者が一定地域(TPP圏)でビジネスしやすいよう商売ルールが一部統一されていく過程にすぎない。選挙は4年に1度だが、商売は1年365日継続する。その広域ビジネスの基本原則をつくるルール・メイキングの場――TPP交渉や合意プロセスにさまざまな政治家がさまざまな思惑で参加するため、本来の目的が見えずらくなっているだけだ。

最後にTPP協定の精神が記してある前文を引く。

「この協定の締約国は、貿易及び投資を自由化し、経済成長及び社会的利益をもたらし、労働者及び企業のための新たな機会を創出し、生活水準の向上に寄与し、消費者に利益をもたらし、貧困を削減し、並びに持続可能な成長を促進するため、経済統合を促進する包括的な地域的協定を作成すること」

おそらく、米国の大統領候補も日本の政治家もほとんど前文でさえ読んでないのではあるまいか。この前文、そして本文を通読してから、発言してはどうか。

「(中略)零細企業及び中小企業がこの協定によって創出される機会に関与する能力及び当該機会から利益を得る能力を向上させることにより、これらの企業の成長及び発展を支援すること、互恵的な規則を通じ、貿易及び投資のための予見可能な法的及び商業的な枠組みを設定すること」

最後のセンテンスがとくに重要だ。世界経済の先行きが不透明ななか、アジア太平洋地域における「予見可能な」枠組みを提供するのがTPP参加国の政治家が果たせる数少ない役割の一つである。それなくして、政治は経済の邪魔でしかない。

Voice 平成28年6月号